小説 多田先生反省記

4.初めての教壇

私は法学部と商学部の一年生を相手にそれぞれ週に二回づつ、併せて四回の授業と二年生相手の中級ドイツ語を一回受け持つだけだった。大学に入ってまもなく母校の中学生の家庭教師をやったことがあるだけで、教員免許状もない私は教壇に立ったことはない。家庭教師を務めていた頃には生徒にせがまれるままにドイツ語のほかに数学の面倒をみてやったこともある。私がいつまでも悪戦苦闘を重ねながら方程式に取り組んでいるその姿に子供が感銘を受けたのか、母親に逐一報告していたようである。一学期でクビになってしまった。いよいよ授業の始まろうとする今、さしたる気負いはない。教わったように教えればいいだろうと思っている。だが、どのように教わったかというに、私の場合尋常な教わり方ではなかった。私は幼いころから心持がまっすぐではなかったようで、中学生になる直前になって普通の中学校に入学するのが疎ましくなった。当時は「ガイジン」という言い回しはなく、世間では西洋人のことはアメリカ人と云っていたような気がする。英語らしきコトバを口にしていれば持て囃されるような風潮が蔓延(はびこ)り、「エー、ビー、シー。エクス、ワイ、ゼット。それがおいらの口癖さ」などという流行歌がラジオから流れていて、そんな台詞がもて囃された時代の流れに反発していた私は、英語ではなくドイツ語を教える私立の中学校に入学した。最初に教えてくれたのは年配の太ったドイツ人女性で、取っ付きの授業からドイツ語で捲し立てられた。挨拶をしていたようだが、何を言っているのか皆目わからない。そのうちドイツ語しか載っていない教科書を翳(かざ)し、「ストインーフ」と言い出して私たち生徒に繰り返せと促しているようなので、口々にそれを唱えるうちに、ドイツ語では「教科書」のことを「ストインーフ」というのか、それにしても面倒な言葉だというような印象を持ったのだった。そのドイツ人の他に、頭の右左と後ろの方に僅かながらぽやぽやと白髪を残す物凄く年を取った小柄な先生もドイツ語を教えてくれた。中学生向けのドイツ語の教科書などないので老先生は大学生用の教科書を使ったのだが、年端もいかぬ子供にはその日本語の説明すら解る筈もない。それでも暫くしてから先のドイツ語は「これは本である」という意味だということがやっと判った。やがて私はドイツ語を選んだことを悔やむようになった。他の教科も並外れていた。数学の教科書は林健太郎が書いた理論数学の本だった。幾何学の授業では高校生用の教科書があてがわれた。私はすぐさま頓挫し、街中に出掛けては遊び呆けていたが、それでも放任主義のこの学校のお陰で落第することも放校処分になることもなくトコロテン方式で高等学校に上がることが出来た。その時分の友人が云うところによると、誰もが私の行く末は街のチンピラだろうと思っていたらしい。私の記憶にはないのだが、古い友人の言によれば「俺はテキヤになるから、一緒に来てくれ」とその友人を伴い、どこかの親分に志願をしたのだが、来る者は阻まずの筈の世界ながらも、その時はけんもほろろに追い返されたとのことである。高等学校に上がってからは街中で遊んでばかりいることにも厭きが来てラグビーを始めた。小さくて、おまけに駆け足の遅い私はラグビーの練習ではいつも仲間の後ろをよたよたと走っていた。先輩達からは「走れ、タダー!追いつけタダー!タダー!」と怒鳴られた。さながらバナナのたたき売りだ。授業になればドイツ語の先生からは「タダー!お前はスクラム組むたびにドイツ語の単語を忘れるのかっ!」と叱られていたが、中川は非常勤で教えに来ていたので、さして口をきいたことはなかった。高等学校も半ばを過ぎた頃になれば周りの者はしっかりと前に進んでいて、いささか不安な気持ちにとらわれた私は仕方なく大学生相手の語学学校に通って、一年が過ぎたあたりには曲がりなりにもドイツ語に関してはクラスの仲間入りを果たすことが出来た。今、学生に街の語学学校に行って勉強してこいと云うわけにはいかない。

最初の授業は法学部の学生相手だった。教室に足を踏み入れると、どれもこれもきょとんとした面持ちをしている。おもむろに教壇に昇ってぴょこんと頭を下げ、「僕が多田です」と挨拶をしたら軽いどよめきがおこった。入学式の日もりゅうとした積りの背広を着こんで肩を怒(いから)して歩いてみたのだが、運動部やらその他のクラブの学生から入部の勧誘を受けて閉口したくらいだから教室にいる入学したての学生達が驚くのも無理はない。中にはてっきり過激派の学生運動家がアジ演説をしに入って来たと思った学生もいたようだ。事実、九州にある大学の中で大学紛争が最も激しいのは「革マル派」の九州大学と「中革派」の城南学院大学なのだから、年恰好もさして変わらない私を学生運動の活動家だと思っても不思議ではない。私は出席簿順に名前を呼び上げた。二人欠席している。

「皆さんは城南学院大学の一年生ですが、僕も同じようなものでして、先日、城南学院に赴任したばかりです。これから一年間皆さんにドイツ語を教えるわけですが、ドイツ語といいますのは・・・」と始めたところで、これまた仕立て上がったばかりというようなブルーのスーツに身を包んだ、目の玉のまん丸い、髪を七三に分けた男が腰を曲げながらヒョコヒョコと入ってきて、するすると真ん中あたりの席に腰をおろした。彼の来るのがもっと早かったら教室の学生は私には見向きもしなかったかもしれない。額の汗を頻りに拭いながら愛想笑いを浮かべて云い出した。

「ここは多田先生のクラスですタイね。イヤー参ったです。僕はですね、篠栗先生んがたクラスさ行ったばってん、あっちゃの名簿さ載っとらんかったですもん。名前ば呼ばれんけん、なしじゃろかぁ思ぉて聞いたとです。それがですな、篠栗先生は、無いもんは無いけんションなかろうゆうてですな。叉教務課さ行って、よっと聞きよったら、あっちで間違ごぉとったですもん。僕、多田先生のクラスで受けろっちってですな。それで遅れてしもぉたですタイ」

 一気に捲し立てられて話の殆どが聞き取れない。ともあれ状況からして欠席となっていた学生だろうと改めて確認した。

「大野君の方ですか?」

「いえ、違います。オオゴモリです」

「大森君?大野君でしょう?」

「いや、オオゴモリですタイ」

「出席簿には大野君か奥稲荷君となっているんだけど・・・」

「だから、ゆうたでっしょうもん。教務課で間違ごぉとったって。僕ん名前は名簿さ載っとらんですけん」

「ああ、なるほど。それで・・・、大森君ですね」

「いっちょん、分かっとらんとですね。オオゴモリ云います。オオゴモリ!」

「字は?」

「カクレルちゅうか、コモルちゅうか、あれですタイ!」

 チュー、チューとばかり聞こえて、あとはなんと言っているのか皆目分からない。適当に言葉を濁して出席簿に名前を書かせると、釘を縦横に並べたような下手糞な字で末尾が汚された。「なんだ、大熊か!」と言いたい気持ちをぐっとこらえた。よく見れば点はない。上に竹の字が載っている。大籠だった。

「ま、そうゆうわけでして・・・。どうゆうわけかわかりませんが、要するに第一回目の授業はどう進めていこうかと一晩じっくりと考えましたが、やっぱり一回目は何もやらないことにするのがお互い何よりだという結論にいたりまして、次回からしっかり勉強するということで、今日はこの辺でおしまいということにします。何か質問がありましたら・・・」

 質問なぞあろう筈もない。呆気にとられている学生を教室に残して初日の第一回目の授業が終わった。今ひとつの商学部の方も簡単に自己紹介をしてからさっさと研究室に戻ってぼんやりと博多湾を眺めた。

二回目の授業で第一日目に欠席していた法学部の奥稲荷が顔を出した。後になって本人から聞いたところによると、最初の私の授業は欠席したような気がすると云っていた。「だが、外国語などというものは最初がもっとも肝心で、これをのがしたらあとが大変なのは充分心得ているから欠席したはずがないと思うので、もしかすると10分か15分遅れて行ったのかもしれない」と述懐していた。事実、私は彼が教室に来た頃には研究室に舞い戻っていたのだ。従って奥稲荷は実際のところ欠席したことになる。この奥稲荷も私の姿をいわば初めて目にした時、今度は彼一人だけでビックリしたらしい。過激派学生という連想は湧いてはこぬものの、「本物の多田先生」は急用が生じたものの、休講という穴をあけるわけにもいかず、急遽登板した「本物の多田先生の助手」だろうと考えた。だが、教室の雰囲気はそうでもなさそうだ。少し間をおいて奥稲荷は納得したようである。

中級のクラスはさして問題はない。学生時分に授業で読んだことのある短編小説を教材にしておいたから、こちらの方は勝手に発音させて、その訳を聞いていれば事は済む。うっかり訳語を忘れてしまっていても、私の目を盗むようにして辞書を引いている学生に尋ねれば答えてくれるから安心である。しかし、これも頃合が大切だ。何回目かの授業のことだが、あらかじめ当てておいた学生が充分に下調べをしてこなかったようで随所で躓いた。その都度単語の意味を教えたのだが、どう頭を巡らせても訳語が浮かんでこないことがあった。例によって辞書を引いている別の学生に尋ねたところ、まだ当該の単語に行き当たっていなかったようで、頭を掻いて誤魔化していたので面食らったが、その学生を叱っているうちに訳語が浮かんできて事なきを得たことがある。初歩のクラスも二回目ともなれば雑談だけで終えるわけにはいかないので、何冊かの参考書を読み漁って準備を重ねた。熱心な学生がいて参考書を読んでいたりして、ネタがばれないとも限らない。 

授業が始まって2週が過ぎたあたりで欠席を続けていた今一人の学生が研究室にやってきた。

「先生、僕、法学部の大野と云います。授業を休んでいまして申し訳ありませんでした」

聞けば友人が山で遭難したので、その救助に出掛けて休んでいたとのことだった。

「もうドイツ語の授業も進んでいるけど、大丈夫でしょう。これからしっかりと勉強してください」

「アルファベットの発音の仕方だけでも教えてもらえませんでしょうか?」

「いいよ、いつがいいかな?」

「今、教えてください。この時間は空いてますから」

 研究室でアルファベットを真似させていたらドアをノックする音がした。

「ここは研究室ですから、授業をやるんでしたら教室でお願いします」隣の法学部の助教授だった。どうにも腹の内が収まりようがない。研究室だからといって研究ばかりしているわけでもないだろう。学生や同僚がくれば世間話だってするだろうし、ぼんやりと鼻毛でも抜いてはくしゃみをしたり、ソファーで昼寝をしていることだってあろう。屁もできないのか。それにしても相手の言うことも大方は的を得ているような気がしたので、下宿でその続きをすることにした。一頻り発音練習をさせて、これまでのところをざっとおさらいしたら、夕暮れ時となっていた。

「君はお酒は呑めますか?」

「はい、大好きです」

 夕餉の仕度をしている婆さんに夕食を断り、私たちは暮色に染まろうとしている中洲に繰り出した。

「先生はお幾つなんですか?」

「この春に修士課程を終えたばかりで24だ。君は?」

「僕は成人式を迎えたばかりです」

「そうか、僕とは4つしか違わないんだ」

「二浪してるんです。二度とも城南には受かったんですけど、どうしても九大に行きたくて今年も受けたんですけど駄目でした。それで城南に入ったんです」

「そうなの?ところで君は博多弁じゃないね」

「僕は奈良の出身なんです。高校生の時に博多に来たとです」

「無理に博多弁にならなくともいいよ」

 大野は家庭の事情がいくらか込み入っていた。母親は再婚なのだが、事情があって大野は奈良にいる祖父母のもとで暮らしてきたのだったが、いつまでも親と離れて暮らすわけにもいかず、高等学校の二年生の時に再婚した母親のもとに呼び寄せられて、新しい父親と養子縁組を結んだのだ。

「城南学院大学は言ってみれば不本意入学ってわけかな?」

「そうですね、いつまでも大学に入らないでいると肩身が狭いとです。先生、それにしても、ここのお魚おいしいですね。先生はこの春に初めて博多にお出でになったんですよね」

「うん、京都から西へ来たのは生まれて初めて」

「それにしては、こげんお店よう見つけはりましたな」

「博多弁と関西弁が入り混じってきたね。日本酒、飲む?」

「いただきますです。はい」かしこまって大きな図体を小さくしていた大野は酔うにつれて背筋を伸ばし、肩をいからせるようになってきた。口元は丸く縮めて前に突き出すような話し振りになってきて奇妙である。

「君は法学部だったね」

「そうです。ボクアー、法学部一年『や組』です。それで多田先生のドイツ語に配属されました。先生、僕のクラスはどんな連中がおるとですか?」

「どんなって云われても僕もまだ2週間しか授業してないしね。ところでさ、僕の下宿なんだけど・・・」

「窓がないですね。さっきは隣の部屋の障子は開いとりましたが、あれは誰か別の人の部屋だとか云うとりましたですね」

「そうなんだよ。いや、部屋のことじゃない。あの隣の部屋の住人なんだけどさ。朝飯の時には顔を会わすんだけどいつも目の玉、真っ赤なのよ」

「はあー」

「いや、毎晩、夜中を過ぎないと帰ってこないわけ。いわゆる午前様なんだな、これが。おまけにヘベノレケでさ。『おばゃーん、帰りよりました』とかなんとか云ってさ。婆さんが玄関から、あの部屋に引き摺って行くわけよ。学校の先生らしいんだけど、婆さんの云うにはどうにも不肖の先生ということなんだ。俺もいづれそう呼ばれるのかな。酒ばっかり呑んでいるから」

「先生、ここではですね、フショウと云うのはですね、附属小学校のことですタイ。縮めてフショウ。みんなそう呼んどります」

 一安心してほろ酔い気分で下宿に帰ったら不肖ならぬ附小の先生は婆さん手作りの食事を終えて高校生と大学生の下宿人と談笑していた。この時間帯に顔を合わすのは初めてのことだったが、「中洲で飲んできた」と言ったら、どうにも間が持てなかったところのようにて、これ以上にないというくらいに相好を崩して「ヨカところさ帰ってきんさった。電車通りば渡って直ぐ近くン所に馴染みの飲み屋のありますけん、ちーと呑みさ行きまっしょ!」ということで私たちは意気揚々と掘立小屋をあとにした。あくる朝、その先生の目玉がいつもの通り真っ赤だったことは云うまでもない。

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